御朱印


伊豆山神社(いずさんじんじゃ)

静岡県熱海市伊豆山上野地

祭神:伊豆山神(火牟須比命、伊邪那伎命、伊邪那美命)
(本来の祭神は、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊)
由緒:
古来、伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていたが、明治になって現在の社名に改称された。

創立の年代は悠久の昔であって確な記録は残されていないが、
人皇五代孝昭天皇の御代と伝え、延喜式神名帳に所載の火牟須比命神社は当社のこととされている。

社伝によれば、当初は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に鎮座となった。

十六代仁徳天皇が勅願所としてより、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を奉納。国土安穏と万民の和楽を祈願した。

平冶の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後、鎌倉に幕府を開くに及んで、 驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて幕府最高の崇敬社として関八州鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に鎌倉、室町期を通じて社勢頗る盛え多数の社領を各地に所有していたことが吉野時代の文章『寺領知行地注文』に記されている。

北條、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、徳川家康江戸開府に先立ち二百石を寄進し、次で、慶長なって百石と併せて三百石の朱印領を寄進して崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地した。

明治以前においては久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る粱塵秘抄に「四方の霊験者は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)、信濃の戸穏、駿河の富士山、 伯耆の大山。」と著され東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられる。

大正三年一月十三日、当時皇太子であった昭和天皇が参拝の砌り若松一株を拝殿左側に手植えされた。
大正七年に宮内省から基本財産の一部にと金参万円の下賜があり、又、昭和三年秩父宮家をはじめ高松、久邇、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の寄進を受けた。

昭和三年昭和天皇大典に際して国幣小社に列格仰出されたが、このとき祭神が火牟須比命に換えられた。

終戦後は神社制度も廃されて宗教法人として新に発足し、今日に至っている。

昭和五十五年九月十二日に現皇太子徳仁親王が参拝をしている。

社の参道(階段)は通称『坂』と呼ばれ、現在でも地名として、東側が『坂東(さかひがし)』。西側が『坂西(さかにし)』となっている。
神社での勉強会で、私が、この「さかひがし」は「ばんどう」ではないかと提起した。
(元来、[坂東]の位置定義としては、[碓井峠と箱根権現を結ぶ線より東側]としているが、箱根権現より海側に至るものがない。)


タイトルと左の写真は、毎年中秋の名月の折に開かれる『鎌倉の三代将軍 源実朝公を偲ぶ名月歌会』の日のものである。

熱海散歩最初のページへ神社へ行こう最初のページへ

(19.5.31 新規作成 / 21.1.-3 修正)